ドアを開けたら足元に寄ってくる愛くるしい生き物を見ながら、ようやく、トキヤは初めて彼を呼んだ。
「音也」何度も口にして、だけど本当の意味ではひとつも呼べなかった名前だ。
小さな生き物は名前を呼ばれて必死に足元にすり寄る、鼻先をくっつけて、前足をひっかけて、ピンク色の舌でなめるものだから生地が深みを増した。
「音也」もう一度声に出す。わん、と子犬が答えた。
子犬はいつもわん、とかくん、とか言葉にしたらおんなじ返事をよこすのだけど音程は違っていていつからかトキヤはおとやの伝えようとしていることが分かるようになった。おれはここにいるよ?と言っているようだった。

「ちがいます、あなたではないのですよ。音也、もういいでしょう」

わん、わん、くぅん、悲しそうな声と目で訴えかける。しゃがんで、小さな頭を出会った時と同じように撫でながらトキヤはやっぱり呼んだ。わん、最後にそう答えて小さな体が煙にまかれたと同時にくらりと視界が傾いて一瞬何も見えなくなる。果たして本当に一瞬だったのか、わからないままそっと目を開けるとそこには自分と同じ身体をもつ一人の人間が立っていた。
音也は不満げな声を出す。

「どうして呼んじゃったの、俺は幸せだったのに」

唇を尖らすしぐさが懐かしい。そう、懐かしいのだ。私は彼を知っている。ずっと。

「ええ、私も幸せでした。小さな貴方はとても愛おしかった」
「うん、トキヤすっごくかわいがってくれた」
「だけど、貴方がいいです。あなたの小さな肉球は私のお気に入りだったけれど、手を重ねることはできませんから」

トキヤが手を伸ばすと音也はそれを掴んでそのまま自身の胸元へもっていく。同じリズムより少し早く鳴る音が音也からトキヤへ伝わった。
「…そうだね、あの子の小さな心臓じゃ、お前と生きてはいけないもんね」

だけどさみしい。
同じ体躯の今じゃ音也はトキヤの腕の中にすっぽり埋まることなんて無理だった。子犬のころそこは音也の大のお気に入りの場所で世界の怖いもの全てから守られているような気がした。暖かい声と暖かいからだとトキヤのにおいと心臓の音。それらすべては音也の愛するもので、与えられることのなかった両腕を今度こそもらえたのだと幸せに浸った。学園を卒業して歳を重ねても音也の中で生きる守られたがりのこどもが安堵の息を吐いた、世界で唯一の場所だった。

「考えたんですよ、貴方が飼ってというなら一生飼いましょう。
この世界で人間のままの音也を拾うことにしました」
「なにそれプロポーズ?」
「どうでしょうね、私にもわかりません。拾われてくれますか?」

音也の心臓に近かった手が赤髪を撫でつける。犬のようにむずがって犬のように擦り付けた。
くん、と音也がなく。
ぼろぼろと涙をこぼして。

「うん、ひろって」