*音也が母親について全て知ったという前提



「子供がよくする作り話だよ」

遠くなつかしむように一呼吸ついて、それから吐き出す。
音也は初めこそ穏やかだったものの核心に近づくにつれて言葉が早くなる、体は小刻みに震え、握られた拳は壁にも人にも向かないがありったけの力を籠められて自身の掌を傷つけているようだった。

「母さんは飛行機事故にあったけど奇跡的に助かって、でも日本へは帰れなくて、遠い地で暮らしてる。彼女は残してきた子供のことが心配で、どうしておいてきてしまったんだろうと後悔して、あの子はいまどうしてるのかしらと気がかりで。可愛い音也、風邪をひいてはないかしら、私を恋しがってはないかしら。
ああ、そばにいたら抱きしめてあげられるのに。私の赤ちゃん、私の音也、貴方に会いたい。そう、時々涙しながら暮らしているんだ。そんな物語を信じてきたよ」

おかしいでしょ、と言う音也を、その光景を信じられなくて、というよりは認めたくなくてレンは神様とか運命のようなものを心の中で罵倒した。どうして、どうして教えてしまったのかと。
音也はそれからなにか愉快なものでも見たように腹の底から軽快にあはは、と笑った。

「俺のことを探して俺のことを考えて、俺を愛してくれた人なんて、どこにもいなかったんだ。どこにも」
「イッキ、それは」
何を言っても慰めにならないというのに投げた言葉は案の定届かず、被せるようにして彼が叫んだ。
「俺のことなんて知らないんだ。いつかどこかで俺を見かけたって、わからない。子供のころの俺が描いてた母さんなんてどこにもいなかった。レン、レン、あの子が…あの子が持っている思い出はほんとうは俺のものだったはずなのに」
悲しみより怒気を含んだ声だった。今、知ってしまった。

レンは音也が可哀そうで可哀そうで仕方なくて涙が止まらなかった。ぼろぼろ零れるその先で不思議そうに首をかしげて見せる。見慣れた仕草だけどそれはもう違うものだ。
音也の中に初めて生まれた怒りと憎しみとが複雑に混ざり合ったものは、その感情は、音也が今まで生きてきた世界を一変させる。この少年はこれからずるくもなる、人を羨んで境遇を妬んで自身を嘆く、幸せを求めては臆病になる。
あんなにまっすぐだったのに。
「どうしてレンがなくの」
境遇よりも、事実よりも、その感情を知ってしまったことが、“一十木音也がかわいそうだから”、と、代わりに泣いている女の子にするように抱きすくめる。
腕の中でもう一度問うたのを無視して「優しくしてあげる」と言った。


今、同情だけで、重ねてきた日々に培った信頼を壊そうとしているレンに一十木音也は気付けない。
泣きもせず笑うのもやめて頷いた。
一方で可哀そうな子供を腕の中に閉じ込めて安堵したのは、はたして彼のためだけだろうかとレンは思う。その感情を知った日に、優しく乱暴にしてほしかったのは、いったいどこの誰だろう。