「お前ら、んな下らねぇことで喧嘩してんのかよ」
「・・・喧嘩、っていうのかなぁ」


駆け込んだ先の友人は話を聞くなり眉を寄せて大きく息を吐いた。


***

トキヤと音也の性格は根本的にことなる、平たく言えば大雑把な音也に対してトキヤはとても几帳面だった。それは入寮時の荷物の片付けからわかっていたことで今も変化はないが二人はなかなかうまくいっていた。
――だから、タイミングが悪かったんだよ、と音也は心の中で呟く。

いつまでたっても教えてくれない謎のバイトから帰ってきたトキヤは中央に置かれているテーブル上のカップが空にも関わらずそのままにされていることが気になったらしくいつものように注意をした。普段ならごめん片付けるよと従うのだが、珍しく自主的に取り組んだ宿題の、散々頭を悩ませた問題があともう少しで片付きそうだったので「後で」とトキヤの方も見ずに返事だけ返した。
もしかしたらそこでちゃんと説明をしていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。
だけど音也の頭は思考をつなぎ合わせることに精一杯でほかの事を考える余裕なんて全くなかった。



「またですか」
「そういって何度そのままにしていたか」
「この前の洗ったコップもそのままにしていたでしょう、あれほど逆さにしろと」
「聞いてるんですか音也」

その精一杯のところにトキヤのお説教が始まってせっかくのひらめきもどこかにとんでしまい、
ぽきりとシャーペンの芯が折れたところで言ってしまった。


「トキヤうるさい」


他意はなかった。純粋に、今は静かにして欲しかった。それに後でやると言っているしそのままにしていたところでトキヤが困るわけでもないのだ。以前聞いてみたところ「とにかく気になってしまう」らしいのだが、
そんな気持ちは音也には理解できるわけもなく、下がった部屋の温度に気付けるわけもなく、
どうやら地雷を踏んでしまったらしいと把握したのはいつもより随分とそっけない声で
「ではもう構いません」と言われてからだった。


結局トキヤはそのまま何も言わず自分の机に座ると疲れているだろうに明日の課題だろうかテキストを開く。
さらさらとシャーペンが流れる音と時計の秒針が刻まれる部屋で音也もまた自らの宿題に取り組みなおした。
最後の一問だっただけあって先に終えた音也は宣言通りカップを洗って小言の通りちゃんとさかさまにしておいた。
ほら、ちゃんとやるんだってば、そう声をかけようとして邪魔しちゃ悪いかなと思い直し、
聞こえるか聞こえないかの大きさで課題に勤しむ背中におやすみを言う。
「おやすみなさい」と帰ってきたので、安心して目を閉じた。
それが昨日の話。




「トキヤが俺に怒るのってあんまり珍しくないじゃん。」
「んーまぁ怒るっつか・・・なんか母親みたいだしな」
「そう?俺そういうのよくわかんないや。
とにかく、虫の居所が悪かったのかなって思ってたらまだ怒ってるみたいなんだよー。翔、どうしよう!」
「どうしようって、謝るしかないだろ」


次の日、つまり今日の朝もトキヤは普通に「おはようございます」と挨拶をしてくれたから、
てっきり機嫌を直してくれたのだと期待したのに会話はそれだけだった。必要最低限のやり取りはするものの全く音也に関心を示さない。同じ空間にいてもずっと無言ではじめこそなんだかんだと話しかけていた音也も、トキヤが「もう構わない」を実行していると気付いてからは口をつぐんだ。
構わないってカップについてだけじゃなくて俺に構わないってことだったんだね。
俺って大らかだから気にしないよ!が口癖の音也でも、あから様な態度をとられると気にしないわけにもいかなかった。


入寮してからこんなにも喋らないのは初めてのことで、不自然な沈黙に耐えられず夕刻、
部屋から逃げるようにして翔に助けを求め今に至る。

「でもさ、トキヤだってちょっとは悪いと思わない?俺は後でするって言ったんだよ。
小さいことを気にしすぎだと思うんだよね」
「お前何も反省してないな」
「えー俺が悪い?」
「お前らダメだ!」



勢いよく頭をはたかれる。
翔って乱暴。


****************


ずば抜けたコミュニケーション力とおおらかさのためか人と争うなんて経験したことない音也はそっけないトキヤに困惑するばかりだった。取りつく島のないトキヤにごめんねだって言えてない。

そりゃすっごく小さい頃は喧嘩なんかも、したかもしれないけど覚えてないし、自分が施設の中でお兄ちゃんと呼ばれる立場になってからは専ら罵り合いひっぱりひっかくような年下のいさかいを宥めることに従事していた。その経験だって役に立たない。トキヤは音也に殴りかかってくるわけではないのだから。
あ、でもそんなトキヤも見てみたいかも。
バイトが長引いているのか帰ってこない同居人のスペースへ目を向ける。整頓された机の上、本棚。対して自分のスペースはごちゃごちゃと物が多く辛うじてCDだけはなんとか並んでいる有り様だ。

本当に正反対なんだなぁ。トキヤが怒ってしまうのも無理がないかもしれない。じゃあどうやって今まで暮らしていたんだっけ。他愛ない会話をしていたのがとても昔のことに感じる。
トキヤが俺の起きている時間に帰ってこないことは珍しくはないのに今は、もしかしたら避けられているのかもと嫌なことを考えてしまう。



(そうか、俺友達とこんな風になるの初めてなんだ)


謝ったら赦してくれるだろうか。
謝っても、もう見限られていたらどうしよう。

じわじわと焦りが込み上げる。急に人を失ってしまった経験はある。疎遠になって自然となくなる関係というのも知っている。世の中には近くにいても離れていく心だってあるんだろう。
だけどもしトキヤとこのままだったら。
このまま一年たって卒業して同室だったって事実しかない、何のかかわりもなく生きていくとしたら。
耐えられない、と思う。



犬と飼い主みたいだと言われたことがあるけれど今の自分はしっぽをしょんぼりと垂らしてご主人の帰りを待つ犬のようだった。

(やだよ、トキヤ、怒らないで)


開かない扉を見ていると世界から拒絶されたような気さえしてきて、
あまりにも一人で、寂しかった。