楽しいことも幸せなこともたくさんあって、彼はとても愛された人間だったけれど音也は捨てられたような気になることがあった。そういう時とても寂しくて寂しくて、縋って抱きしめてわあわあ泣いても許される両腕がないことを途方もなく悲しいと思っていた。 だから何でもひとつ願い事をかなえてやると言われた時どうせかないっこないとあきらめ半分、本当に叶ったら面白いな、その程度で出てきた答えだった。 「犬になって飼われたい」 小さなあの生き物ならばおいていかれることもなく、大好きなご主人様に看取られるまできっと嬉しいことしかない。 「飼い主は、一ノ瀬トキヤ」 * 収録の帰りに子犬を拾った。否、そにいるから、拾って。と言われていた。 草花と戯れて土に汚れてきゃんと呼んだそれを拾い上げて「音也」と名付ける。名付けるというのも変かもしれないこの名前は彼に遺された唯一のものだったはずだ。 「今日からうちの子ですよ」 抱き上げるとその子はくりくりとした目を輝かせてトキヤにすり寄った。可愛いけれど少しさみしい。彼はどうして、人のまま自分といることを選んでくれなかったのだろうか。 難しいことを聞いても今の彼にはわかるわけもない。この子犬はご飯と、遊ぶことと、トキヤしかわからない。 「こら、音也!」 カーテンを銜えてびりびりと破っていた子犬をしかる。くーんという鳴き声はさながらごめんなさい、と反省をしているようだった。トキヤがソファに腰を下ろすと軽快な足音と共にやってくる。口元を舐められてトキヤは怒っているポーズも取れずに笑ってしまった。 「まったく、貴方にはかないませんね」 「わん」 「そういえば夕方にはレンが来ますよ。実は同じ番組に出ることになったのですが、その打ち合わせです。いい子にしていてくださいね」 「わん!」 「返事だけはいいんですから。音也がレンと会うのは久しぶりですね」 眉間のあたりを撫でると気持ち良さそうに音也は目を閉じる。この場所を、毛の流れに沿って触れてもらうのが子犬は大好きだった。トキヤはふと違和感に襲われる。この犬を飼ってから果たしてレンが来たことはあっただろうか? しばらく考えて、ないという結論に達した。子犬を拾ったのが三か月前だ。レンがこの前ここに来たのは映画の撮影が終わった祝いで翔と一緒だったはずで、それはもう随分と前だ。何故そんな勘違いをしたのだろう? 「…すみません、初対面ですね。知らない人が来たからと言って走り回らないように」 ところが、レンが家に入ってきても音也は面識のない人間が来た時のように興奮して走り回ることはなかった。とことこと足元に近づいて、トキヤが帰ってきた時同様にズボンのすそをそっと噛む。 「おや?いっちーが気を付けてくださいと言うからどんなおてんばな子かと思ったけど、随分可愛らしい歓迎だね」 「ええ、いつもならそうなんですけど…」 「ふーん?ご主人様のお仕事を知ってるのかな?賢い子だ。初めまして、いっちーと同じグループで活動している神宮寺レンだよ。お嬢ちゃん」 「オスですよ」 「あ、ほんとだ」 会話に夢中になると俺の方も見てよと言わんばかりにトキヤに特攻を仕掛ける子犬が今日はおとなしい。病気なのではと思ったがご飯もいつも通りに食べた。 「いっちー!まるで会話を聞いているようだよ」 ただ二人の間に居座って尻尾をゆるゆると振る。相槌のように。 「時々人の言葉が分かっているように思える時があります」 特に歌をうたうときその歌詞の意味を分かっているような表情をする。人間の時から音也はトキヤの歌が好きだった、その名残だろうか。 …音也は、子犬だ。 老犬が子犬だった過去があっても子犬が人間だった過去があるわけがない。 「疲れているようです」 「えっ大丈夫かい?」 末っ子なのにお兄ちゃん体質のレンと子犬が心配そうにみる、目が似ていて、トキヤはその光景が愛しかった。2人はどこか深いところがそっくりだと思ったことがあった。寂しさの形がにているのだ。自分では入っていけないその領域に一抹のさみしさを抱いたこともあったけれど音也とレンが並んでいると兄弟みたいで好ましくて、レンのあとをついてレンのまねをする様はトキヤにはできない方法で甘えているように見えた。 「なんだかとても懐かしいです」 七海春歌は楽譜を抱えてそう言った。 「一ノ瀬さんの曲を作るの久しぶりです」 「君も忙しいですからね」 「ええ、うれしいことに、です!ああ一ノ瀬さんに曲を作るのが一番緊張します。はりきって沢山作りすぎちゃいました」」 その言葉通り彼女の抱える楽譜はいろいろなアイディアに満ちていた。才能だと思う。彼女の湧き出る泉水のような数々の楽曲は。 トキヤが手に取った楽譜を自信作だと言った。 「デュエットですか。相手は七海君の中では決まっているのですか?」 「そうです!つくりながら、もう一ノ瀬さんとの声との重なりが聞こえてきちゃいました。落ち着いた一ノ瀬さんの歌声と、えっと、あれ?変ですね、私。どなたの声だと思ったんでしょう。明るくて、柔らかくて、ああこれだって明け方に思って、ええと…」 歌い手が不在の重なる旋律を指でなぞる。トキヤの頭にも彼女の言っている声が聞こえた気がした。 「これ、どうしましょう」 おどけて笑うその奥でさびしそうな表情に見えたのは間違いではないだろう。 耳に残る音が声になる。 かすかだったものが形を伴うにつれてトキヤは一つの答えを見つける。 子犬と生活をしてもう半年以上たっていた。 |