前髪が少し伸びていた時期があって、邪魔だというとゴムを貸してくれた。
前髪を上げた姿が新鮮で幼く見えて可愛いねとレンが額をつついたからお返しに同じように結んで、顔を見合わせると笑い合った、きっと格好良くなんかないお互いの姿がどうしようもなく愛しく思えたから。


「これ返すよ」
「ああ。まだ持っていたのかい」
「捨てらんないよ、レンのだもん」
「嬉しいね。それで、本題は何かな。といっても予想はつくけどね」
「レンは鋭いなぁ」
「今更これを返す意味くらい、誰にでもわかりそうだと思うけど」
昨日貸して、今日返すといったものではなかった、音也とレンの中にあるその記憶はもう懐かしい。わざわざ返さなくても言葉がなくてもなかったことにするのは簡単なのにあえて呼びだすところが音也らしい、とレンは思う。はじまりだって口約束はなかったのだから。



隠れるようにして二人でいることが増えたのはいつからだろう。

同室の男がいないときの部屋や口裏を合わせてこっそり屋上で、教室で、レコーディングルームで。場所はどこだってかまわなかった。うたを歌ったこともあったし映画を見たこともある。音也が生涯を語ればレンもまたこれまでのことを口にした。学校のこともクラスのことも将来のことも昨日見たテレビの話も明日提出する課題の話も、思い出せないくらい多くのことを誰でもなくレンは音也に、音也はレンに話したのだ。ただ黙って肩を寄せ合う時間も多かったけれど。

「何があったわけじゃないんだ。だけど昨日、トキヤと一緒にいてさ、急に、ああもう大丈夫なんだって思ったんだ」

そのころから変わらないものが一つ。
音也はトキヤを恋人という意味で好いていて、実際付き合ってもいた。もちろんレンは初めから知っている。

「それはよかったね」
「泣きたくなるくらい嬉しかったよ。嬉しくてうれしくてたまらなかった。俺が変な顔するからトキヤが不振がってさ、それもどうしようもなく幸せで笑いが堪えられなくて、結局怒られちゃった」

音也が返してきたゴムを手の中で遊ばせながら、もう片方の手で赤い髪を撫でつけた。これも何度もした行為だけれど、彼の恋人であるトキヤは考えもしないだろう。
「付き合ってくれてありがとう。レンは俺より先に大丈夫だったのに。
でもだから、俺はさよならって言えるんだろうな」
「さよならは酷いなぁ。これからまだまだ一緒にいるだろ?俺たち同じ世界で頑張る仲間じゃないか」
「レン」
呼ばれた名前は固く響いた。
音也がまっすぐに瞳を見つめるので逸らせない。こんな声が出せるほど、いつの間に少年は大人になったのだろう。

「…とは言ってもね、言葉なんかいる関係では、なかっただろう?ただ一緒にいた。それだけじゃないか。後ろめたいことなんか何もない。キスの一つさえしなかった」
「でも」
「イッキは深く考えすぎさ。俺とイッキはずっと友達だった。これまでも、これからも。そこにさよならなんていらないよ」
特別だったと認めてしまったらそれこそトキヤに不義理を働いたことになる。
実際何もなかったのだから、言葉の上でも明確にしないほうが双方にとって良いはずだ。
ただ似ていたから、居心地がよかっただけだ。いつだったか音也が「眩しすぎるから」とこぼしたことがある。これといった返事はしなかったけれどレンの心の中で一つの答えになった。寂しいと寄り添うには、傷の一つもない友人では余計にひとりになってしまう。幸福に一歩足りないくらいが丁度よくて、だから彼と自分は隣にいるのだと。

そんな月日が今日で終わる。
彼も自分ももう、太陽を遠ざけて傷をなめあうことなどしなくても生きていける。


「俺、たぶんレンと生まれたかった。双子でも兄弟でも」
「嬉しいよ」
「そしたら寂しがってた子供のころのレンをさ、慰めてあげることもできたのにって」
「うん、そうだね。俺も同じこと思うよ」
「でも、もう、あんな風には会わないと思う。そこだけさよならなんだ。わかって」
「うん」
「レン、本当にありがとう」

恋人だとか友人だとか、名前のあるものではない関係が終わるこの瞬間を、秘密基地から帰る子供のようだとレンは思う。そんな経験は幼い日のどこを探してもないけれど。

大人から隠れて内緒よと合言葉を決めて狭くて小さな場所にこっそりと宝物を広げる。
いつかそこから離れてその場所も忘れてしまうのだけど、頑なに居座った、秘密基地の最後の住人。これから同じグループで活動し、もちろん友人として付き合っていく。だけどあの場所に戻ることはもう二度とない。

先に扉を開けたのは、本当はどちらだろう。
寂しがり屋な彼が一番最後にならないように見送ってあげよう、懐かしい思い出になるように。



さあ、ここでおひらき


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